2025年8月8日金曜日

ウィリアム・グラハム・サムナーについて

 今年私は精神保健福祉士を受験した。受験資格を得るには必要科目の修得が必須であり、その中に社会学がある。社会学のテキスト、そして試験対策用の書籍に、サムナーの名前を何度か見かけたのである。
 社会科学に関する書籍は学生の頃(30年ほど前)に随分読んでいたのだが、サムナーの著書は未読であった。和訳されているものは2冊のみだったし、どちらも既に古書でサムナーについて学ぼうとする者でない限り手を伸ばす本ではなかった。令和となった今ではさらに入手困難である。新訳されることもなかったことから、サムナーは注目されないままであったといえる。
 そのサムナーの名がテキストだけではなく、今年の国家試験に出てきた。多くの受験生は試験対策として過去問題集を活用し、選択肢すべての解説を読み記憶していく。今後数年間、受験生の多くはサムナーの名と、彼に関するキーワードを覚えることであろう。そう考えると、サムナーの名を登場させたことは試験作成者の意図があるように思えてならなかった。受験後、サムナーの著書「フォークウェイズ」を古書店で購入し読了。すると試験作成者の意図を私なりに想像することが出来たのである。そこで今回はサムナーについて述べてみることにする。

 社会科学の生みの親とされるのはフランスのコント(1798-1857)だ。カール・マルクスはコントよりも20歳年下であり、マルクスよりも2年遅れてイギリスでスペンサーが誕生している。このスペンサー誕生の20年後、ニュージャージーでサムナーは生まれている。マックス・ウェーバーよりも年長であることからも、サムナーがいかに古い人物であることが分かる。当然、アメリカでは最も古い社会科学の大物であり、サムナーの社会学理論は代表的な著書『フォークウェイズ』で展開されている。

サムナー著「フォークウェイズ」書籍画像

 サムナーは、社会における人々の行動や習慣をフォークウェイズとモーレスという概念で説明している。
 サムナー自身の言葉を借りると、フォークウェイズとは「欲求を充足しようとする努力からおこってくる個人の習慣であり、社会の慣習」①であり、「欲求を満足させる方法であるゆえ、(中略)目的にたいする手段」②として、「フォークウェイズはそれらがその目的によく適合しているかどうかによって、快、不快を伴う」③ものである。
 そしてモーレスとは「社会生活の福祉に資する信念」④により「苦痛にみちているとはいえ、当を得ているものとされてきたことを行っている」⑤ことであり、「生活の福祉と関係したこの信念がフォークウェイズに加わるときに、それはモーレスにかわる」⑥のだとしている。サムナーはさらに詳しく「モーレスは、われわれがみんな無意識のうちに参加している社会的な儀礼である。労働時間、食事時間、家族生活、男女の社交、礼儀正しさ、娯楽、旅行、休日、教育、定期刊行物や図書館を利用すること、その他無数にある生活のささいなこと、といった現今の習慣はこの儀礼の下にある」⑦としている。
 フォークウェイズとモーレスはどちらも社会的習慣であるが、フォークウェイズは欲求充足の手段としての社会の慣習であり、モーレスはフォークウェイズの中から特に社会の存続や福利のために重要だと考えられている道徳を含む規範、規則であるといえる。

 サムナーの主張はフォークウェイズ、モーレスを基盤としたものであるのだが、現代の社会科学ではこの2つよりも「エスノセントリズム」(自民族中心主義)という言葉を見る機会が多いことだろう。
 エスノセントリズムとは「人々をして、かれらのフォークウェイズにおけるすべてのことを、それは特有のものであり、それが自らを他と異ならしめているのだ、と誇張し、強調する方向へと導くということ」⑧である。つまり、自分が属してきた社会や国家の文化を優れたものとし、他の文化を持つ民族や国家を低く評価する態度のことだ。
 サムナーはエスノセントリズムを集団内のフォークウェイズを強化するものとしており、決して悪者扱いをしているわけではない。エスノセントリズムは人間社会に普遍的にみられる自然な現象としているので、それ自体を否定することはできない。そこでサムナーは、自分たちの文化に同化しない他者を受け入れ、その価値を認め、異なる文化がそのまま共存する社会を理想としたのである。
 一方サムナーはエスノセントリズムの危険性についても指摘している。特に危険視したのがエスノセントリズムの極端な形態であるショーヴィニズム(盲目的愛国心)だ。ショーヴィニズムについてサムナーは「うぬぼれ高き、野蛮な、集団の自己主張にたいする呼び名である。それは個人の判断力や品性を威圧し、その時世を支配している徒党のなすがままに全集団をもってゆく。それは合いことばや空言の支配を生み、そしてそれが行為の決定にさいして、理性や良心にとって代わる。愛国的なゆがみは、思考や判断力のひとつの認められる悪用、曲解」⑨であると厳しく批判している。
 ショーヴィニズムは自集団に対する盲目的で排他的な愛着であり、他集団への攻撃性を伴う。それは「愛国心が悪へと墜落」⑩したものであり、ナショナリズム(国家主義)と結びつくことで戦争へ導く可能性があるとサムナーは考えたのである。

 「フォークウェイズ」を読み進むと、サムナーの社会学的な考え方、特にエスノセントリズムとショーヴィニズムに関する洞察は、現代の持続可能な開発目標(SDGs)と密接に関連していることが見えてくる。
 目標16は「平和と公正をすべての人に」である。エスノセントリズムは他集団への偏見や差別を生みだすものであるから、目標16と真っ向から対立する考え方である。戦争へ繋がる恐れのあるショーヴィニズムもまた同様である。さらに言えば「福祉」という言葉の意味とも対立するものであろう。社会福祉士・精神保健福祉士の共通科目にサムナーの名前が登場した理由はここにあるに違いない、と私は想像したのである。

 今年の参議院選挙では「愛国心が悪へと墜落した」ショーヴィニズムを正当化する政党が躍進した。昨今、SNSなどで増幅しているのは保守思想や愛国心ではなくショーヴィニズムだ。サムナーの「フォークウェイズ」は、今まさに注目されるべき古典であると言える。福祉を志す方が、一人でも多く、サムナーについて知り、理解を深めることを切に望み、拙い小論の終いとしたい。

【引用】
①ウィリアム・グラハム・サムナー『フォークウェイズ』青木書店 1975年 P4
②同P11
③同P47
④⑤⑥同P9
⑦同P80
⑧同P22
⑨同P26
⑩同P25

2025年6月1日日曜日

就職氷河期世代としての実感と今後の対策

 「世界」6月号の特集「老いる社会」、東京大学の近藤絢子氏のインタビュー記事を興味深く読んだ。
 近藤氏は97年の金融破綻の影響を免れた98年卒までを就職氷河期の前期、それ以降2004年卒までを後期と分けて区別しているという。そして近藤氏はこう発言する。『よく「就職氷河期の声」として、九〇年代に卒業した人たちの苦境が聞かれますが、実際に就職状況が一番悪かったのは二〇〇〇年前後卒の時期』①だと。
 確かにその通りであるのだが、私が気になるのは、なぜ90年代に卒業した人たちの苦境が多く聞かれるか、である。私は団塊ジュニア世代であり、近藤氏が言う就職氷河期の前期に該当する。そこで、自分自身と周囲の状況を振り返り、私なりの視点で考えてみたい。

 就職活動が厳しかったかどうかと問われれば、厳しかったと答える。なかなか決まらない者が多かったし、希望した企業に入社できる人は稀だった。
 私自身はどうだったかというと、入社試験や面接を受けたのが5社、内定は1社のみだった。これだけ見るとそれほど大変ではなかったように思えるが、受けるまでが大変だった記憶がある。資料請求をしても返ってこないことが多かったのだ。受けたのは5社であったが、資料請求をしたのは40社くらいだった。まだインターネットが普及していない時代である。資料請求はハガキで行い、そこに大学と学部名を記入する。応募してくる学生の数が多く、学校名である程度企業側も絞り込んでいるのだろうと推測したものである。

 これはいつの時代でも同じだと思うが、新卒で入社した会社が自分に合うとは限らない。特に就職氷河期であれば、業種や地域などで絞って数を打つしかない。全ての企業を出来るだけ調べるということはなかなか難しかった。私が内定をもらった企業にしても上層部や幹部社員のほとんどがある宗教団体に属していることが分かりすぐに辞めた。転職をし私が20代の大半を勤務した企業は、今でこそ東証一部上場企業であるが、当時は年商130億くらいだったので大企業ではなかった。しかし名前は知られていたので、周囲からは「大手」と言われることが多い会社だった。

 当時はWindows95が発売された頃だ。日本での発売は95年11月下旬なので、実際に普及し始めたのは96年からと言っても良いだろう。私のいた会社でも一人に一台、徐々にPCが普及し始めた。AS400など大型の端末はそれまでにも使っていたのだが、さらに各自のPCでデータを作成することが開始された。パソコンは若者に任せよう、そうした風潮が社内にあったが若者であっても初めてPCに触れる者が殆ど。私もそうだった。通常の業務の他にPCでのプログラム開発が業務としてあったわけだが、知識や技術を含めゼロからの仕事が大半であった。通常業務でさえ残業が必要な職場だったが、さらに残業を必要とした。現在の過労死ラインは月80時間以上の時間外労働だそうだが、20代の頃の私は過労死ラインより短かった月はなかった。

 残業代は「技能手当」というものに置き換えられていた。私のいた部署が物流と品質管理であり、「荷物が入ってくるまでの間、待っているだけの時間もあるだろう」ということを代表が説明したこともあった。手当は1万円くらいだったと記憶している。
 大手企業はきちんと残業代を支払っているところが多かったが、首都圏の企業でも中小企業はそうではないところが目立つ時代だった。取引先で交流のあった人たちの話でも、残業は多いが残業代は出ていない、という企業がいくつかあった。今にして思えばとんでもないことだが、当時はそれが普通だろうと思っていた。残業時間にしても「24時間働けますか?」というCMがあったくらいだ。24時間働くことはなくても、残業が多いことに対する不満はなかった。

 こんな働き方をしておれば、身体を壊す人が出てくる。私のいた企業でも年齢、性別を問わず、身体の内部か精神を病む職員が出始めた。
 せっせと残業してプログラムを開発することで仕事が便利になった分、新たな仕事が増えていく…PCの普及は仕事の効率を上げたがこなす仕事量、特に情報量、考えなければならないことが急激に増えた。携帯電話やメールが普及し始めたことも影響していた。今でこそ普通のことだが、働き方が急激に変化した時期だった。そこについていけない人から先に辞めていった。
 精神障害者手帳の制度が始まったのは平成7年からだったが、今のように心療内科を街に見かけることはなかったし、制度の認知度も低かった。「うつ病」などの病名ではなく「ノイローゼ」という言葉で済まされていたようにも思う。辞めた人の中には、社会復帰をするまでに数年を要する人もいたし、今も完全復帰できていない人もいる。
 20代後半、私の残業は月150時間を超えることが常態化していた。そしてある朝、起床した時に吐血した。同時期、お世話になった上司が、出張先でくも膜下出血で倒れ、そのままかえらぬ人となった。身体を壊す職員が続いていたこともあったので、みんな「働きすぎが原因だろう」と感じ始めていた。だけど、どこまでが自分の弱さで、どこから先が働きすぎなのか分からなかった。過労死防止対策推進法が施行されたのは2014年、まだまだ先のことであった。

 身体を壊した私も退職し、首都圏を離れ地方へと移り住んだ。地方での給与は低いが、定時に帰宅する生活が出来た。もっとも、地方ならではの遅れも存在しており、私が移住した頃はまだ、日曜日と祝日のみを休みとする企業も多かった。残業が多くしかも残業代が支払われていない企業もたくさん見てきた。

 同様のことは私の周囲にも起きていた。仕事がきついなどの理由で退職した人たちは、首都圏から地元に帰る者、首都圏で再就職する者など様々であったが、その頃は近藤氏の言う「就職氷河期の後期」とその数年後の期間にあたる。新卒の採用が厳しい世の中では中途採用はさらに厳しい。首都圏では派遣や契約で働く人が増えたし、地方に転職したとしても給与の低い仕事に就いた人が多くいた。
 しかしこれは、私を含め、最初はある程度の企業に勤めていた人の話である。大学や高校、専門学校から新卒採用が叶わず、職を転々とする人、アルバイトを続けた人、最初から派遣や契約で働き始めた人も同級生には結構いた。このような人の状況は私よりもっと悪い。働いてはいるけれども貧しい。人数の多い世代だけにワーキングプアの数も多い。近藤氏はいちばん子供の数が少ないのは団塊ジュニア世代だとしているが、こうしたことも理由なのだろうと私は思う。

 これですべて書き尽くしたとは言えないのだが、以上のような経験から、就職氷河期卯世代の苦境は、働き方に対する考え方の遅れ、社会保障制度の遅れ、PC導入によるデジタル化と情報量の急激な増加など、様々な要因による結果なのだろうと思うのである。

 そして1995年には既に少子化は始まっており、さらに深刻化することが予想されていたにも関わらず、一番人口の多い団塊ジュニア世代の収入について、30年もの間、政府は実効性のある対策を全くと言っていいほどしてこなかった。一番多い世代なのだから、収入をある程度安定させることが出来れば税収も安定する。そうしたら、今の子育て世代の境遇も違っていたはずだ。
 多くの政治家は選挙のたびに「子育て世代のために」だとか「お母さん目線で」だとかの言葉を並べたがる。子育て支援制度が始まって10年が経つが暮らしは楽になっただろうか?子育て世代への直接支援は耳にすると聞こえは良いが、周囲の世代を置き去りにしてしまうと社会は疲弊する一方ではないだろうか。
 例えば教育の無償化を掲げる政党があるが、これも解決に繋がるとは思えない。今の親世代の収入が高まらないと将来親になる人たちの出生率は上がらないだろう。また前述の通り、氷河期世代の人口が世代間では一番多いことを考えると、親より上の世代の収入も考慮しないと財源は増えないだろう。氷河期世代への就労支援ということも考えているようだが、私たちの年代がより良い給与を求めて再就職することもまた難しいだろう。

 稚拙ではあるが、考えられる対策としては、思い切って定年制を廃止し、同時に社会保障制度の見直しをすることである。今後、65歳以上に対する就労支援は「長く働き続ける」ことに重点を置き、65歳以上の雇用と継続雇用に対する補助の拡大をさらに行うこと。そしてそれは65歳以上の再分配を主な財源とすること。これを今から10年以内に確立させれば、就職氷河期が65歳になった時に間に合うはずである。また65歳以上でも障害者年金が確実に受け取れるように制度を見直すことも必要だろうと思う。高齢になっても働き続けるリスクに対する補償の拡充も急務ではないだろうか。

(引用)
①近藤絢子「インタビュー 就職氷河期世代の老後」岩波書店『世界』2025年6月号 P175

2025年4月18日金曜日

「無色」についての小考

  もう30年以上も前のことだ。
 大学から帰宅する途中、新宿線の車内で読んだアポリネールの詩集に「絵画はしょせん光の言葉にほかならない」という一節があったのである。
 「光の言葉」という一言が目に飛び込んできたときは衝撃的だった。光がなければ絵画は存在しないことになる。確かに光がなければ(少なくとも地球上の、或いは絵画が存在するであろう空間においては)色は存在しないのだから、アポリネールは正しいと思えた。
 では
「無色」とは一体何か?それまでの私は無色を漠然と白色というように捉えていた。しかし、色のない無色は光がない状態であるので、それは闇でしかない。闇を人の眼が捉え表現するとしたら「黒」となるはずだ。

 そこで私はこう考えた「真の無色とは黒ではないだろうか」と。
 そして一つの疑問が生じた。
 「では、無色透明とは何か?」

 透明という言葉は、水やガラスのように、向こう側が透けて見えるものに対して用いるのが普通であろう。「透明なガラスコップ」とあれば、誰もが普段使っている普通のあのコップを思い起こすに違いない。自然界と照らし合わせてみても、透明という言葉の意味と用法は、恐らくこれで間違ってはいまい。
 そうなると「無色透明」が厄介である。無色を黒としてみると、無色透明とはなかなか想像しにくいものとなってしまう。考え込むうちに思考の限界を感じたものだが、この「限界」という言葉がヒントとなった。
 つまり日本語の限界である。我々が無色透明としてしまっているものにも色はあるのだ。光の中に存在し、人の視覚に飛び込んでくる物体である以上、色はある。それを安易に「無色透明」としてしまったのではないか。
相応しい色の呼称が思いつかなかったのではないかと私は考えたのである。

 日本語の限界とは、日本人の想像力や感受性の限界であるとも言える。限界という表現が正しくないとすれば、考える必要のなかった表現であるとも言えるだろう。それは言語によっても異なるので、「木枯らし」のように日本語にはあって英語にはない表現というものはいくらでもある。逆もまたしかりであろう。もしかしたら、私の知らない言語では「無色透明」に明確な色彩名が存在するのかもしれない。
 日本の美学はこのようなことをテーマに研究するべきではないのか。そういえば、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」に「物にも命がある。問題は、その魂をどうやってゆさぶり起こすかだ」とあった。今こそ名前をつけるべきではないのだろうか。
 そのようなことを考えているうちに列車は終点の本八幡駅に着き、私は遅い帰宅をしたのだった。

 当時の私が間違っているとは思わないし、私は今も「無色とは黒である」と確信している。だが一方、30年たった今では「無色透明」という言葉の響きもまた、想像力の産物として十分な美しさを発しているのではないかと思うこともある。私のような人間にも、受容の精神がようやく芽生えたようである。



2025年3月20日木曜日

反戦意識のさらに先へ|平和の定義

 私は戦争に強く反対する者である。しかし平和主義者かと問われれば「そうだ」と明確に答える自信はなく、むしろ「違う」と答えるだろう。
 カントが言うように「平和とは一切の敵意が終わること」とするのであれば、平和の概念は深く考察すればするほど不明瞭なものとなり、国家や社会において平和を存在させることは不可能だと考えられるからだ。
 故に私は平和主義者ではない。しかし反戦主義者であることは明言できる。その理由に論理は不要だ。ともかく反対せざるをえないほど私は戦争を嫌悪している。

 もちろん、反戦の理由には議論の余地があることも承知している。
 現在、他国に侵略する恐れのある国家があることも事実であるから、武装して備える必要性はあるといえる。
 中には日本も核武装すべきだとの主張もあるが、その賛否や武装レベルについての考察はここでは無視することにする。また私は戦争を嫌悪しているので、好戦的な考えを持つ者の声もここでは無視することにしたい。

 さて、他国からの侵略に備えて武装が必要であるという考えには、私もある程度賛同できる。そして武装が必要とする意見を述べる人の多くが好戦的ではないことも理解している。「戦争をしないで済むならそれにこしたことはない」という声を耳にしたこともあるし、安部元総理ですら、

70年前、私たち日本人は1つの誓いをしました。二度と戦争の惨禍は繰り返してはならない。この誓いの元で平和国家として日本は歩んできましたし、そして、これからはさらに地域や世界の平和のために貢献しなければいけないと思ってます。戦争をしたいなんか誰も思ってません(引用元:https://logmi.jp/main/social_economy/77567)

と語っていたことがある。
 問題はこの先だ。「戦争をしたいとは思っていない」と語る同じ口から「出来ることなら武装強化はしたくない」という主張が出てこないことである。
 武装強化はそのまま戦争の大きさに繋がってしまう。これを「相手があるから仕方ないことだ」とするのは好戦的な思考の持ち主であろう。
 真に戦争をしたくないと思うのであれば、必要な防衛のレベルを見極め実践しつつ、軍事拡大を抑制する方針も同時に進行させなければならない。軍事拡大ばかりを唱えるのであれば、好戦的であると見られても致し方ないだろう。

 戦争は避けたいとしながらも軍事拡大を目論む理由として容易く想像できるのは、軍事利権である。私は陰謀論を好まないが、軍事産業を拡大するにも理由が必要であり、その後ろ盾になるのが近年採決されてきた「法案」なのではないかと疑いたくもなる。

 いずれにせよ、平和に貢献するという意思があるのであれば、防衛とともに軍事拡大を抑制する手段も併せ持たねばならない。矛盾しているようにも聞こえるが、この両輪をそれぞれ明確に主張しなければ国際的に平和貢献の信は得られないであろうし、この両輪を考察し続けなければ、国家が暴走を始めるとき、引き止める術はないだろう。

 最後に、冒頭でカントの「平和とは一切の敵意が終わること」を引用したが、私なりにこう言い換えることが出来る。
「平和とは、敵意のない状態を目指す手段の考察と実勢を継続することである」と。

戦争…イメージ画像