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2024年3月22日金曜日

寺山修司と五月の青森

何年か前、4月下旬から5月にかけて、青森へ行ってきました。
弘前の桜まつりを見ることなどいくつか目的があったのですが、その中に「桜が咲く頃の青森市を歩くこと」がありました。
青森出身の詩人、寺山修司の記憶を辿り、寺山にとっての「五月」と「青森の桜」を感じてみたかったのです。

私が好きな詩人、寺山修司は、昭和10年12月に弘前で生まれました。
幼少時の寺山は八戸、三沢など青森県内を転々としていますが、昭和23年に大叔父が経営する青森市の映画館に引き取られます。
この映画館のあった場所は青柳2丁目で、現在はモルトン迎賓館という結婚式場になっています。
その3年後、青森高校に入学した寺山は青森市松原に下宿します。
青柳と松原は歩いて行けるほどの距離です。
青森高校を卒業した後、寺山は上京しますから、青森で最も長い時間を、それも13歳から18歳の最も多感な時期を過ごしたのが青森市青柳と松原、つまり堤川沿いの地域となります。
そしてこの地域の地名が登場する詩に「懐かしのわが家」があります。
肝硬変で亡くなる前年の昭和57年に発表され、遺稿とされている作品です。
短い詩なので、全文を紹介します。

昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかゝって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森市浦町字橋本の
小さな陽あたりのいゝ家の庭で
外に向って育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを 
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ

作中に出てくる浦町字橋本は、寺山が暮らしていた青柳と松原から近い場所です。
ただ、現在の浦町字橋本は公園の一部のみを指すようで、陽当りのいい家も、大きな桜も見当たりませんでした。
ですが、死期を悟っていたであろう寺山が、最後に思いあたるであろう光景は、青森市の桜だったことに間違いありません。

青森市内の桜

青森市の中心街、橋本に近い宿に滞在して、私は市街地を歩きました。
枝垂桜、ソメイヨシノなど、街ではあらゆる桜が一斉に咲いていました。
咲き方も見事で、同じソメイヨシノでも青森の桜は堂々と咲き誇っているように見えました。
大きな桜が多いのです。
それはまさに、「外に向かって育ちすぎた桜の木」そのものでした。

寺山修司は、5月を題材にした作品が多いことでも知られています。
5月の青森の桜を眺めながら、私は寺山にとっての「五月」を想像しました。
寺山の第一詩集「われに五月を」は、1957年に刊行されましたから、22歳よりも前に書かれたものであることは間違いありません。
この詩集に収めらている「五月の詩」にはこうあります。

二十才 僕は五月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
いまこそ時 僕は僕の季節の入口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
二十才 僕は五月に誕生した

12月生まれの寺山ですが、5月こそが彼の季節であったことがわかります。
「五月に誕生した」ならば、その場所はどこになるのだろうか?
寺山は、どこの5月を思い浮かべて、この詩を書いたのだろうか?
「二十才」のころ、寺山は早稲田大学に入学し東京で生活をしていたものの、ネフローゼで立川の病院に長期入院をしています。
「二十才」で入院したことを「誕生」とし、闘病中に執筆したのであれば東京である可能性は高く、私自身も自分が育った東京の5月を思い浮かべながらこの詩を読んできました。
しかし青森の桜を前にすると、青森市なのではないのかとも思えてくるのです。
20歳で書いたかもしれないけれど、思い浮かべていた5月は青森の風景だったのではないか。
一斉に咲き誇っていた青森の桜は、こどもの日を過ぎる頃、あっという間に葉桜になります。
「木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる」
既に新緑の5月の東京よりも、青森の風景の方があてはまるように思えてならないのでした。

ところで、「懐かしのわが家」の途中(「内部から成長をはじめるときが来たことを」の後)に、「五月の詩」の紹介した部分を続けると、あまり違和感なく読めてしまうのではないでしょうか?
昭和58年5月4日、青森では桜吹雪が舞う「五月」、寺山修司は47歳でこの世を去ります。
寺山にとって死は、自身の「季節の入り口」をくぐることに他ならなかった。
私はそう思いたいのです。

(追記)
青森市に滞在した後、私は弘前へ足を伸ばしました。
寺山が生まれた街です。
弘前城の桜は、昼も夜も見事なものでした。
これほど綺麗な桜を見たのは初めてです。 

弘前城の桜1

弘前城の桜2

弘前城の桜3

弘前城の桜4

2024年3月20日水曜日

河津聖恵さんの「夏の花」

 何年か前の沖縄が梅雨入りした頃のことです。10㎞走って帰宅すると1冊の詩集が届いていました。
 河津聖恵さんの「夏の花」です。

夏の花

 読み始めると、福島、広島、そして沖縄…これほどまでに向き合い続けている詩人が今他にいるだろうかと思わされます。

 原発の根元に咲いた花を河津さんは詩います。

一輪の花がいまひらきはじめる
なおも咲くのか
なぜ咲くか
無数の黒い穴は問いもだえる
死ぬことも生きることも滅んだのに
宇宙の一点をいま花の気配が叛乱する
「月下美人(一)」より

 そして沖縄で書かれた作品にたどり着くころには、大変な詩集を手にしたものだと恐縮しながら読むことになります。「大変な」とは、沖縄という地で平和と対峙すること。杖で足元を確認するように、平和とは何かを検証すること。創作においてこれほど苦しく辛い作業はありません。
 詩は思考の向こう側にあります。
 沖縄の現実を直視し平和とは何かを検証することは、思考の段階で既に困難を極めるのです。他でもない私自身がとてつもなく苦しんだ、そして今も格闘している作業です。
 河津さんは4編の詩を、思考の向こう側に辿り着かせています。

花明かりはほろびない どんな闇にも 花は花の魂を奪わせないと

 河津さんが来沖された時、少しだけ沖縄をご案内したことがあります。地中の骨について語り、地中の骨の上を歩きました。あの時の感覚が、作品を読むと蘇ってきます。
 乱開発が繰り返される沖縄で、私はまだ、かろうじて走り続けています。
 花の輝きと地中の骨の声は、まだ私に届いている。「夏の花」が、大切なことを確認させてくれたのです。

三角みづ紀さん|旅をする詩人

 旅はこころのありようを問うもの、と幸田文は書いています。「旅」と「走」はとても似ています。一人旅が苦手な人は、恐らく一人で走るのも苦手です。トレーニングも幾人かで行わないと面白くない、と考える人が多いようです。一人旅が好きな人は、一人で走ることを好むようにも思います。一人は孤独です。でも独りでいられる人でないと、こころのありようを問うことは出来ないでしょう。本物の走者、本物の旅人は、きっと独りです。独りで想い、独りで動く。独りを確立させることが出来て初めて、他者と関わることも出来るのではないでしょうか。

 さて、私が今を生きる詩人で最も好きな人を挙げると、三角みづ紀さんの名前が出てきます。三角さんは、旅をする詩人です。
三角さんからの手紙
 旅先からたくさん絵葉書を送ってくださって、それが私の宝物になっています。
今の日本を代表する詩人と言っても良いのではないかと思います。
 その三角さんの詩集に「隣人のいない部屋」があります。スロヴェニア、イタリア、ドイツを旅した際に執筆された作品で構成されていて、独りで旅する思考が凝縮されています。
 例えばランニングであれば、記録の為に走る、という意識が強くなってしまうと、走ることそのものを楽しむことが出来なくなることがあります。
 旅も同じです。
移動をつづける
町から町へ、町から島へ
そうやって徐々に
目的だけになって
する ことを
する ために
風景がしんで黒い額縁に飾る
ひどく疲れているのかもしれない
もうすぐサンタルチア駅だ 
(詩集「隣人のいない部屋」より)
 「風景がしんで黒い額縁に飾る」…これをランニングに置き換えると、走ることは痛苦でしかないように思えてきます。目的を見失うのとは違います。明確過ぎる目的が、精神を細く削ります。
 「何のために走っているの?」
現役の頃からよく耳にする質問です。20歳の頃は答えられませんでした。旅することも、走ることも、「こころのありようを問うもの」であるならば、この質問は「こころのありようを問うてどうするのか?」と言い換えることが出来ます。
 何故こころのありようを問うのか?
 自分を見つめてどうするのか?
 私は走ります。
 少しですが私も文章を書きます。
 走ることを思考に、書くことを速度に。
 生きることを、人生を肯定するために。
 私の人生は自分で肯定するくらいの価値はあるはずだと。
静脈にのって
輪郭をそこないつつあるが
とめどなく進む
青の洞窟を抜けて
わたしたちは愚かだが
生きる価値くらいはある
(詩集「隣人のいない部屋」より)
 人生はマラソンではありません。旅でも詩でもありません。でもマラソンや旅、或いは詩を書くことは、人生を肯定する手段になるはずです。
 三角さんは、日常のすべてを詩にすることで、生きることを肯定している詩人なのだろうと思います。だからこそ私は三角さんの作品から、「私たちは生きている」という強いメッセージを感じます。

水上勉さんの文章道

 私の人生には、師と呼べるひとが幾人かいます。作家の水上勉さんは、その中でも最も大きな存在の方でした。20歳の頃からお話させていただくようになりました。いつだったか、私の書いた論文に軽く目を通し「あなたの書く文章は詩になるかも知れないね」と言ってくださったことが、私の人生を変えてしまったのかも知れません。
あれから30年近くの月日が流れました。

 私の書棚には、水上勉さんの著作「虚竹の笛」があります。
虚竹の笛
沖縄に移住しようとしていた頃に戴いた本で、水上さんの署名の入った、私にはもったいない一冊です。本書は第二回親鸞賞を受賞した作品ですが、この本について語った水上さんの言葉が今も忘れられません。
「文章道を行くのであれば、私は先輩たちの名作から学び、文章道にもとらないようにしたいものだと思います。『虚竹の笛』は、そういうことを書いておきたい本です。借り物の言葉を言ってすましているのは愚かです。この本には借りた言葉はないでしょう」
 水上さんが他人の文章について語ることは殆どありません。過去の偉大な作家の作品の素晴らしさを語ることはあっても、水上さんの批判というものを私は聞いたことがないのです。
 この頃、晩年の水上さんは、一語一語ゆっくりと、息をとぎれさせながら語っていました。丁寧に言葉を選びつつ語るので、話す言葉に隙が見つからないほどです。そこへ「借り物の言葉を言ってすましているのは愚かです」と言われたものだから、こちらは緊張します。自分自身を振り返ると、好きな作家や思想家の言葉と文体を、知らず知らずの内に拝借してしまうことが少なくありません。
 水上さんの言葉は、現在の小説家の文体にもあてはまります。例えば、著者や作品名をまったく見えない状態にして、過去の作家の本を読んでみると、井伏鱒二、井上靖、太宰治、志賀直哉、永井荷風など挙げればきりがありませんが、文体そのものが各々完全に異なります。
 しかし現在の小説家は、実名を挙げることは控えますが、他人の小説を「これは私が書きました」といってみても全く違和感のないほど似通ったものが溢れています。

 そして水上さんが語ることは、走ることにも通じるものがあります。私の陸上の師は、誰かの後ろについて走ることを嫌いました。「自分の速度で走っていない」と言うのです。
1500mで、私が先頭を走る選手の真後ろについてラスト150mで追い抜いてゴールした直後には、「よく勝ったと思う。でもお前は他人の速度で走って、それで満足なのか?」と言われました。「自分自身を把握すること、そして自分の速度を貫くことが大切だ」と言われ続けて私は走りました。
 水上さんに「借り物の言葉を言ってすましているのは愚かです」と言われ、極度に緊張した理由には、走っていたころの記憶が蘇ってきたこともありました。

 さて「虚竹の笛」には、日本人留学僧と中国の女性との間に生まれ、日本に尺八を伝えたとされる禅僧を軸に、小説とエッセーを交えて、日本と中国との文化交流が描かれています。
「尺八の音を聴くと、禅宗の無の思想が伝わるように思えてならないのです。あの笛は何故なるのでしょうか。そう思います」
「人間には二通りある。無為の真人の修行の道と、それと無縁の道が、あるように思えます。笛を吹くことの出来る人間は前者に該当します。谷間の竹が、風の音を聴いて育ち、笛になるのです」
 笛を吹くことの出来る人は、笛に共鳴するものを持っているということなのでしょう。
勿論それが禅宗であるとは限りませんが、尺八の響きは計り知れないものがあると水上さんは語っていました。
 禅とランニングとを関連付ける発想は海外でも散見されていますが、走ることも自然との共鳴であるように思います。
 「走」という動作を通じて、重力や風、気温など、自分自身を取り巻く自然環境と共鳴することが出来る人、その人こそまさしく走者であると言えるのではないでしょうか。
 そして水上さんの語る「無為の真人の修行の道」は、独り長い道程を、旅をするかのように走っていると、おぼろげながら見えてくるように思えるのです。

安谷屋正義『滑走路』

 初めて安谷屋正義の絵画作品を見たのは、佐喜眞美術館に展示されていた「白い基地」でした。安谷屋正義という画家について、全く予備知識がないまま絵と対峙し、私は「白い基地」に吸い込まれました。館長の佐喜眞さんに絵について伺おうとしたのですが、忙しそうで何も聞けなかったことを覚えています。そして安谷屋正義という画家の名と「白い基地」だけが、私の脳裏に深く刻み込まれました。

 次に安谷屋正義と出会ったのは沖縄県立美術館で開催されていた「ニシムイ展」です。ニシムイとはニシムイ美術村のことで、那覇市首里に西森(ニシムイ)と呼ばれた地域があって、そこに東京美術学校(現東京芸術大学)出身等の画家たちが集った生活協同地域です。

 ニシムイ展で、安谷屋正義の展示場に入ると、真っ先に「滑走路」が視覚に飛び込んできました。正確には、飛び込んで来たのは「線」です。1963年に描かれた「滑走路」は、そのサイズが909×2180と安谷屋の作品の中でも大作であり、米軍基地の滑走路と米軍機とが、鋭い線を主体に描かれています。画と対峙した瞬間に私は、キャンパスから線が飛び出し、私の網膜に刺さり後頭部へ突き抜けたような感覚に陥りました。そして視線を上げ再び絵を直視すると、線が眼に痛い。

「滑走路」

 この線は、鼓膜に突き刺さるような米軍機の甲高いジェットエンジン音、そして脳天から叩き潰されるような爆音であるように思えました。恐らく安谷屋は、滑走路を描き上げるまでに、幾度となく軍用機のエンジン音を耳にしたはずで、彼はキャンバスに風景だけでなく音も描いたに違いない。そう思えてなりませんでした。

 そしてもう一つ、「白い基地」にしろ「滑走路」にしろ、安谷屋の作品からは沖縄らしさが感じられないことに気付きました。後に画集で確認してみると、おそらく1955年ごろを境に、安谷屋の作品から「沖縄らしさ」が消えてゆくのが分かります。

 これはとてつもないことです。沖縄で表現された多くの芸術作品には、沖縄を想起させるものが含まれているものが圧倒的に多い。多くの芸術家が、沖縄という島に根ざし、共同体の中から自らを中心に物事を捉え表現を発していたのに対し、安谷屋はそことは距離を置き、全く別の場所で思考していたのですから。

 現代の沖縄でもこれは困難なことです。しかし、島の原風景を否定することなく乗り越えることが出来なければ、いつまでたっても「沖縄の」芸術と言われ続けることになるでしょう。「沖縄の」と頭に付く限り、芸術も思想も、はては主義主張でさえ、他の地域からは一線を画したものとして見られてしまいます。そしておそらく、乗り越えた思考だけが、島の外に伝わるのではないでしょうか。