2025年6月1日日曜日

就職氷河期世代としての実感と今後の対策

 「世界」6月号の特集「老いる社会」、東京大学の近藤絢子氏のインタビュー記事を興味深く読んだ。
 近藤氏は97年の金融破綻の影響を免れた98年卒までを就職氷河期の前期、それ以降2004年卒までを後期と分けて区別しているという。そして近藤氏はこう発言する。『よく「就職氷河期の声」として、九〇年代に卒業した人たちの苦境が聞かれますが、実際に就職状況が一番悪かったのは二〇〇〇年前後卒の時期』①だと。
 確かにその通りであるのだが、私が気になるのは、なぜ90年代に卒業した人たちの苦境が多く聞かれるか、である。私は団塊ジュニア世代であり、近藤氏が言う就職氷河期の前期に該当する。そこで、自分自身と周囲の状況を振り返り、私なりの視点で考えてみたい。

 就職活動が厳しかったかどうかと問われれば、厳しかったと答える。なかなか決まらない者が多かったし、希望した企業に入社できる人は稀だった。
 私自身はどうだったかというと、入社試験や面接を受けたのが5社、内定は1社のみだった。これだけ見るとそれほど大変ではなかったように思えるが、受けるまでが大変だった記憶がある。資料請求をしても返ってこないことが多かったのだ。受けたのは5社であったが、資料請求をしたのは40社くらいだった。まだインターネットが普及していない時代である。資料請求はハガキで行い、そこに大学と学部名を記入する。応募してくる学生の数が多く、学校名である程度企業側も絞り込んでいるのだろうと推測したものである。

 これはいつの時代でも同じだと思うが、新卒で入社した会社が自分に合うとは限らない。特に就職氷河期であれば、業種や地域などで絞って数を打つしかない。全ての企業を出来るだけ調べるということはなかなか難しかった。私が内定をもらった企業にしても上層部や幹部社員のほとんどがある宗教団体に属していることが分かりすぐに辞めた。転職をし私が20代の大半を勤務した企業は、今でこそ東証一部上場企業であるが、当時は年商130億くらいだったので大企業ではなかった。しかし名前は知られていたので、周囲からは「大手」と言われることが多い会社だった。

 当時はWindows95が発売された頃だ。日本での発売は95年11月下旬なので、実際に普及し始めたのは96年からと言っても良いだろう。私のいた会社でも一人に一台、徐々にPCが普及し始めた。AS400など大型の端末はそれまでにも使っていたのだが、さらに各自のPCでデータを作成することが開始された。パソコンは若者に任せよう、そうした風潮が社内にあったが若者であっても初めてPCに触れる者が殆ど。私もそうだった。通常の業務の他にPCでのプログラム開発が業務としてあったわけだが、知識や技術を含めゼロからの仕事が大半であった。通常業務でさえ残業が必要な職場だったが、さらに残業を必要とした。現在の過労死ラインは月80時間以上の時間外労働だそうだが、20代の頃の私は過労死ラインより短かった月はなかった。

 残業代は「技能手当」というものに置き換えられていた。私のいた部署が物流と品質管理であり、「荷物が入ってくるまでの間、待っているだけの時間もあるだろう」ということを代表が説明したこともあった。手当は1万円くらいだったと記憶している。
 大手企業はきちんと残業代を支払っているところが多かったが、首都圏の企業でも中小企業はそうではないところが目立つ時代だった。取引先で交流のあった人たちの話でも、残業は多いが残業代は出ていない、という企業がいくつかあった。今にして思えばとんでもないことだが、当時はそれが普通だろうと思っていた。残業時間にしても「24時間働けますか?」というCMがあったくらいだ。24時間働くことはなくても、残業が多いことに対する不満はなかった。

 こんな働き方をしておれば、身体を壊す人が出てくる。私のいた企業でも年齢、性別を問わず、身体の内部か精神を病む職員が出始めた。
 せっせと残業してプログラムを開発することで仕事が便利になった分、新たな仕事が増えていく…PCの普及は仕事の効率を上げたがこなす仕事量、特に情報量、考えなければならないことが急激に増えた。携帯電話やメールが普及し始めたことも影響していた。今でこそ普通のことだが、働き方が急激に変化した時期だった。そこについていけない人から先に辞めていった。
 精神障害者手帳の制度が始まったのは平成7年からだったが、今のように心療内科を街に見かけることはなかったし、制度の認知度も低かった。「うつ病」などの病名ではなく「ノイローゼ」という言葉で済まされていたようにも思う。辞めた人の中には、社会復帰をするまでに数年を要する人もいたし、今も完全復帰できていない人もいる。
 20代後半、役職についた私の残業は月150時間を超えることもあった。そしてある朝、起床した時に吐血した。同時期、お世話になった上司が、出張先でくも膜下出血で倒れ、そのままかえらぬ人となった。身体を壊す職員が続いていたこともあったので、みんな「働きすぎが原因だろう」と感じ始めていた。だけど、どこまでが自分の弱さで、どこから先が働きすぎなのか分からなかった。過労死防止対策推進法が施行されたのは2014年、まだまだ先のことであった。

 身体を壊した私も退職し、首都圏を離れ地方へと移り住んだ。地方での給与は低いが、定時に帰宅する生活が出来た。もっとも、地方ならではの遅れも存在しており、私が移住した頃はまだ、日曜日と祝日のみを休みとする企業も多かった。残業が多くしかも残業代が支払われていない企業もたくさん見てきた。

 同様のことは私の周囲にも起きていた。仕事がきついなどの理由で退職した人たちは、首都圏から地元に帰る者、首都圏で再就職する者など様々であったが、その頃は近藤氏の言う「就職氷河期の後期」とその数年後の期間にあたる。新卒の採用が厳しい世の中では中途採用はさらに厳しい。首都圏では派遣や契約で働く人が増えたし、地方に転職したとしても給与の低い仕事に就いた人が多くいた。
 しかしこれは、私を含め、最初はある程度の企業に勤めていた人の話である。大学や高校、専門学校から新卒採用が叶わず、職を転々とする人、アルバイトを続けた人、最初から派遣や契約で働き始めた人も同級生には結構いた。このような人の状況は私よりもっと悪い。働いてはいるけれども貧しい。人数の多い世代だけにワーキングプアの数も多い。近藤氏はいちばん子供の数が少ないのは団塊ジュニア世代だとしているが、こうしたことも理由なのだろうと私は思う。

 これですべて書き尽くしたとは言えないのだが、以上のような経験から、就職氷河期卯世代の苦境は、働き方に対する考え方の遅れ、社会保障制度の遅れ、PC導入によるデジタル化と情報量の急激な増加など、様々な要因による結果なのだろうと思うのである。

 そして1995年には既に少子化は始まっており、さらに深刻化することが予想されていたにも関わらず、一番人口の多い団塊ジュニア世代の収入について、30年もの間、政府は実効性のある対策を全くと言っていいほどしてこなかった。一番多い世代なのだから、収入をある程度安定させることが出来れば税収も安定する。そうしたら、今の子育て世代の境遇も違っていたはずだ。
 多くの政治家は選挙のたびに「子育て世代のために」だとか「お母さん目線で」だとかの言葉を並べたがる。子育て支援制度が始まって10年が経つが暮らしは楽になっただろうか?子育て世代への直接支援は耳にすると聞こえは良いが、周囲の世代を置き去りにしてしまうと社会は疲弊する一方ではないだろうか。
 例えば教育の無償化を掲げる政党があるが、これも解決に繋がるとは思えない。今の親世代の収入が高まらないと将来親になる人たちの出生率は上がらないだろう。また前述の通り、氷河期世代の人口が世代間では一番多いことを考えると、親より上の世代の収入も考慮しないと財源は増えないだろう。氷河期世代への就労支援ということも考えているようだが、私たちの年代がより良い給与を求めて再就職することもまた難しいだろう。

 稚拙ではあるが、考えられる対策としては、思い切って定年制を廃止し、同時に社会保障制度の見直しをすることである。今後、65歳以上に対する就労支援は「長く働き続ける」ことに重点を置き、65歳以上の雇用と継続雇用に対する補助の拡大をさらに行うこと。そしてそれは65歳以上の再分配を主な財源とすること。これを今から10年以内に確立させれば、就職氷河期が65歳になった時に間に合うはずである。また65歳以上でも障害者年金が確実に受け取れるように制度を見直すことも必要だろうと思う。高齢になっても働き続けるリスクに対する補償の拡充も急務ではないだろうか。

(引用)
①近藤絢子「インタビュー 就職氷河期世代の老後」岩波書店『世界』2025年6月号 P175