2025年10月31日金曜日

フランコ・バザーリアの思想(狂気と自由)

 フランコ・バザーリア(1924-1980)の思想が、今こそ日本の精神医療に必要であると感じている。いや、「今こそ」というのは正確ではないだろう。「今もまだ必要」なのだ。それほど日本の精神医療、精神保健福祉は遅れていると言わざるを得ない。

 今年3月、私は精神保健福祉士資格を取得した。受験資格を得るため2023年から専門学校で指定科目を履修していたのだが、この時期、ある裁判の行方が気になっていた。精神疾患も認知症症状もないにもかかわらず37日間にわたり医療保護入院となり、向精神薬投与などにより心身に損害を受けた男性が宇都宮病院を相手に訴訟を起こしていたのである。事件について2022年7月2日の週刊金曜日の記事にはこうある。

強制入院である医療保護入院の措置を進めたのは同病院創始者の石川文之進医師(96歳)であった。
医療保護入院の決定を下すことが許されている精神保健指定医の資格がない石川氏に代わり決定をしたのは同病院の池田啓子医師だが、同氏は実質的な診察を行なわず石川氏の意思を追認。弁護団が証拠保全をした書類からは、江口さんの到着前の11時6分には精神科に入院とする記録が作成されていたことが明らかになっている。

そして今年5月、 宇都宮地裁は「違法に身体の自由を侵害した」として約300万円の支払いを命じた。

 宇都宮病院と言えば、1984年、看護職員の暴行により入院患者2名が死亡した事件があったことで知られている。世にいう「宇都宮病院事件」である。加害者の人数は不明、凶器は鉄パイプであった。驚くべきことに、宇都宮病院では1981~1984年の間、222名の患者が死亡している。この事件により日本の精神医療体制は国際的に非難されることになり、対策として1987年に精神衛生法が精神保健法に改正されたのである。ちなみに、引用した記事にある石川氏は1984年当時も病院長である。世間を震撼させる大きな事件があっても変わらぬ体制を維持し続けた宇都宮病院だ。訴訟内容のようなことは日常的に行われていたのではないかと疑いたくもなるし、その体制を容認し続けてきた行政にも呆れるばかりである。

 長くなったが、日本の精神医療において、過去と変わっていない現場が存在する例として宇都宮病院での事件を挙げた。事件の要因には、抑圧的なシステム、閉鎖的な環境が存在することは疑う余地もない。嘗てのイタリアにおいて、このような医療体制を根本的に変革した人物がバザーリアだ。その思想の核心は反施設主義と「自由こそ治療だ」という信念であり、その思想の根幹は精神障害者を「治療されるべき患者」としてではなく「社会で暮らす市民」としてその尊厳と権利を尊重すべきという立場であった。

 バザーリアは1961年にゴリツィア県立精神病院長に就任すると「自由こそ治療だ」を展開してゆく。拘束衣や白衣の廃止、開放病棟化の推進、医療者と患者がともに自治集会を開くなど、民主的な関係性の構築をすることで長期入院患者を大幅に減らし、患者の尊厳を回復させる試みを先駆的に行ったのである。その後トリエステ県立病院でも同様の取り組みを実践しつつ行政や世間への働きかけを続け、1980年イタリアで画期的な精神保健法(法180号)が成立する。バザーリアの功績から「バザーリア法」と呼ばれるものである。

 この法律では、精神病院の新規入院を禁止し、既存の精神病院を段階的に閉鎖・廃止することが定められている。その代わりとして、精神障害を持つ人々のケアを地域社会に基づいたサービス(地域精神保健センター、デイケア、住宅支援など)へと移行させることが義務付けられた。これによりイタリアは世界で初めて精神病院のない社会を目指すこととなり、実際に現在のイタリアでは従来の精神病院は廃止されているのである。

 バザーリアの活動については、書籍「精神病院はいらない!」(現代書館)に付録されているDVD、映画「むかしMattoの町があった」によく描かれているので、興味のある方は是非ご覧いただきたい。

「精神病院はいらない!」(現代書館)表紙

 私は日本もイタリアと同様に精神病院の廃止をすべきだと考えているわけではない。だが先述した宇都宮病院事件などから、バザーリアの思想が日本の精神医療に今も必要であると痛感しているのである。

 バザーリアは、「精神病とは、この病が発症している様々な社会的背景に根ざした狂気の表現方法である」①とし、「狂気は人間の条件の一つです。私たちのなかには狂気が存在しています。理性が存在するのと同じように、狂気も存在しています。文明社会というためには、社会が理性と同じく狂気も受け容れなければならない」②と語る。そして「自由こそ治療」であるとするのだが、バザーリアの言う自由とは「自分自身の制約を認識していること」③である。つまり治療の根本は、自分自身の制約を認識すること(障害の特性を自ら把握することとも言い換えられるであろう)であり、決して他者からの制約ではないのである。

 私は特に「狂気」を日本社会がどのように受け容れるかということについて、今一度バザーリアの思想に立返って医療体制を再検証する必要性を痛感している。その際、既に語られるようになって久しい「当事者主体」「権利擁護」の重要性を再認識することが必要となるだろう。福祉の現場にいる人の多くは「何をいまさら」と思われるだろうが、バザーリアの言葉を借りれば、宇都宮病院での例も人間の条件としての狂気と言えないだろうか。少なくともこうした事件が起こる可能性は今も確実に存在するのである。その事実を受けいれ、認識し、今以上に「当事者主体」と「権利擁護」が重要視される仕組みが必要であると考える次第である。

【引用】
①フランコ・バザーリア著『バザーリア講演録 自由こそ治療だ!』岩波書店 2017年 P213
②同 P54
③フランカ・オンザロ・バザーリア著『現実のユートピア』みすず書房 2019年 P121