2025年4月18日金曜日

「無色」についての小考

  もう30年以上も前のことだ。
 大学から帰宅する途中、新宿線の車内で読んだアポリネールの詩集に「絵画はしょせん光の言葉にほかならない」という一節があったのである。
 「光の言葉」という一言が目に飛び込んできたときは衝撃的だった。光がなければ絵画は存在しないことになる。確かに光がなければ(少なくとも地球上の、或いは絵画が存在するであろう空間においては)色は存在しないのだから、アポリネールは正しいと思えた。
 では
「無色」とは一体何か?それまでの私は無色を漠然と白色というように捉えていた。しかし、色のない無色は光がない状態であるので、それは闇でしかない。闇を人の眼が捉え表現するとしたら「黒」となるはずだ。

 そこで私はこう考えた「真の無色とは黒ではないだろうか」と。
 そして一つの疑問が生じた。
 「では、無色透明とは何か?」

 透明という言葉は、水やガラスのように、向こう側が透けて見えるものに対して用いるのが普通であろう。「透明なガラスコップ」とあれば、誰もが普段使っている普通のあのコップを思い起こすに違いない。自然界と照らし合わせてみても、透明という言葉の意味と用法は、恐らくこれで間違ってはいまい。
 そうなると「無色透明」が厄介である。無色を黒としてみると、無色透明とはなかなか想像しにくいものとなってしまう。考え込むうちに思考の限界を感じたものだが、この「限界」という言葉がヒントとなった。
 つまり日本語の限界である。我々が無色透明としてしまっているものにも色はあるのだ。光の中に存在し、人の視覚に飛び込んでくる物体である以上、色はある。それを安易に「無色透明」としてしまったのではないか。
相応しい色の呼称が思いつかなかったのではないかと私は考えたのである。

 日本語の限界とは、日本人の想像力や感受性の限界であるとも言える。限界という表現が正しくないとすれば、考える必要のなかった表現であるとも言えるだろう。それは言語によっても異なるので、「木枯らし」のように日本語にはあって英語にはない表現というものはいくらでもある。逆もまたしかりであろう。もしかしたら、私の知らない言語では「無色透明」に明確な色彩名が存在するのかもしれない。
 日本の美学はこのようなことをテーマに研究するべきではないのか。そういえば、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」に「物にも命がある。問題は、その魂をどうやってゆさぶり起こすかだ」とあった。今こそ名前をつけるべきではないのだろうか。
 そのようなことを考えているうちに列車は終点の本八幡駅に着き、私は遅い帰宅をしたのだった。

 当時の私が間違っているとは思わないし、私は今も「無色とは黒である」と確信している。だが一方、30年たった今では「無色透明」という言葉の響きもまた、想像力の産物として十分な美しさを発しているのではないかと思うこともある。私のような人間にも、受容の精神がようやく芽生えたようである。