2024年3月20日水曜日

三角みづ紀さん|旅をする詩人

 旅はこころのありようを問うもの、と幸田文は書いています。「旅」と「走」はとても似ています。一人旅が苦手な人は、恐らく一人で走るのも苦手です。トレーニングも幾人かで行わないと面白くない、と考える人が多いようです。一人旅が好きな人は、一人で走ることを好むようにも思います。一人は孤独です。でも独りでいられる人でないと、こころのありようを問うことは出来ないでしょう。本物の走者、本物の旅人は、きっと独りです。独りで想い、独りで動く。独りを確立させることが出来て初めて、他者と関わることも出来るのではないでしょうか。

 さて、私が今を生きる詩人で最も好きな人を挙げると、三角みづ紀さんの名前が出てきます。三角さんは、旅をする詩人です。
三角さんからの手紙
 旅先からたくさん絵葉書を送ってくださって、それが私の宝物になっています。
今の日本を代表する詩人と言っても良いのではないかと思います。
 その三角さんの詩集に「隣人のいない部屋」があります。スロヴェニア、イタリア、ドイツを旅した際に執筆された作品で構成されていて、独りで旅する思考が凝縮されています。
 例えばランニングであれば、記録の為に走る、という意識が強くなってしまうと、走ることそのものを楽しむことが出来なくなることがあります。
 旅も同じです。
移動をつづける
町から町へ、町から島へ
そうやって徐々に
目的だけになって
する ことを
する ために
風景がしんで黒い額縁に飾る
ひどく疲れているのかもしれない
もうすぐサンタルチア駅だ 
(詩集「隣人のいない部屋」より)
 「風景がしんで黒い額縁に飾る」…これをランニングに置き換えると、走ることは痛苦でしかないように思えてきます。目的を見失うのとは違います。明確過ぎる目的が、精神を細く削ります。
 「何のために走っているの?」
現役の頃からよく耳にする質問です。20歳の頃は答えられませんでした。旅することも、走ることも、「こころのありようを問うもの」であるならば、この質問は「こころのありようを問うてどうするのか?」と言い換えることが出来ます。
 何故こころのありようを問うのか?
 自分を見つめてどうするのか?
 私は走ります。
 少しですが私も文章を書きます。
 走ることを思考に、書くことを速度に。
 生きることを、人生を肯定するために。
 私の人生は自分で肯定するくらいの価値はあるはずだと。
静脈にのって
輪郭をそこないつつあるが
とめどなく進む
青の洞窟を抜けて
わたしたちは愚かだが
生きる価値くらいはある
(詩集「隣人のいない部屋」より)
 人生はマラソンではありません。旅でも詩でもありません。でもマラソンや旅、或いは詩を書くことは、人生を肯定する手段になるはずです。
 三角さんは、日常のすべてを詩にすることで、生きることを肯定している詩人なのだろうと思います。だからこそ私は三角さんの作品から、「私たちは生きている」という強いメッセージを感じます。