何年か前の沖縄が梅雨入りした頃のことです。10㎞走って帰宅するとかつての職場から1冊の詩集が届いていました。
河津聖恵さんの「夏の花」です。
読み始めると、福島、広島、そして沖縄…これほどまでに向き合い続けている詩人が今他にいるだろうかと思わされます。
原発の根元に咲いた花を河津さんは詩います。
一輪の花がいまひらきはじめる
なおも咲くのか
なぜ咲くか
無数の黒い穴は問いもだえる
死ぬことも生きることも滅んだのに
宇宙の一点をいま花の気配が叛乱する
「月下美人(一)」より
そして沖縄で書かれた作品にたどり着くころには、大変な詩集を手にしたものだと恐縮しながら読むことになります。「大変な」とは、沖縄という地で平和と対峙すること。杖で足元を確認するように、平和とは何かを検証すること。創作においてこれほど苦しく辛い作業はありません。
詩は思考の向こう側にあります。
沖縄の現実を直視し平和とは何かを検証することは、思考の段階で既に困難を極めるのです。他でもない私自身がとてつもなく苦しんだ、そして今も格闘している作業です。
河津さんは4編の詩を、思考の向こう側に辿り着かせています。
花明かりはほろびない どんな闇にも 花は花の魂を奪わせないと
河津さんが来沖された時、少しだけ沖縄をご案内したことがあります。地中の骨について語り、地中の骨の上を歩きました。あの時の感覚が、作品を読むと蘇ってきます。
乱開発が繰り返される沖縄で、私はまだ、かろうじて走り続けています。
花の輝きと地中の骨の声は、まだ私に届いている。「夏の花」が、大切なことを確認させてくれたのです。