本稿ではイギリスにおける貧困対策の歴史を整理し、貧困認識の転換とナショナルミニマムの意義について論じる。
16世紀、宗教改革などにより貧民や浮浪者が増加し社会不安が高まる中、治安維持を目的としてエリザベス救貧法が1601年に成立する。貧民を無能貧民、有能貧民、扶養する者がいない児童に分け、有能貧民は懲治院に収容され労役場での強制労働が課せられた。1722年には労役場テスト法が制定され、貧困者が抑圧的に管理される状況が続いた。
18世紀後期、1782年にギルバート法が制定。労働力のある貧民は居宅で仕事を与える院外救済が行われた。1795年、スピーナムランド制度が導入され、生活費の基準に達していない家庭に差額を支給した。これらは人道的な側面もあったが、労働意欲の低下(貧困の罠)や、納税者が貧困化するなどの問題が生じた。
同時期、古典派経済学が隆盛を迎える。スミスは「国富論」で「神の見えざる手」による私利と公益の一致を説き、国政による市民生活への干渉は最小限にすべきとした。マルサスは「人口論」で、人口抑制が有効な貧困対策であると主張、貧困救済は人口増加に繋がるとして否定した。福祉の費用は削減され、救済水準全国統一、院外救済の全廃、劣等処遇の原則を特徴とする新救貧法が1834年に制定された。
その後、政府による対応の不十分さを補うように慈善団体による活動が盛んになる。1869年に慈善組織協会が設立され、救済に値する貧困者と救済に値しない貧困者を区別し、前者のみに友愛訪問を行った。一方、デニソンが創始したセツルメント思想は、貧困は個人の問題ではなく社会の問題であり、政策によって解決できるとするものであった。セツルメント運動は1884年にトインビーホールが設立されたのをきっかけに広まっていく。
19世紀末、貧困の原因や状況を客観的に分析しようとする動きがあった。ブースの調査、ラウントリーの調査が代表的である。ブースはロンドンで貧困調査を行い、貧困線や貧困地図を導入、市民の3割超が貧困線以下であることを示した。ラウントリーはヨーク市で調査を行い、栄養基準に基づいた貧困線を設定。第一次貧困と第二次貧困に分けて分析し、約3割の市民が貧困線以下、約1割が極貧状態にあることを示した。この2つの調査は、貧困は社会自体に原因があることを証明するもので、貧困認識の転換に大きな影響を与えた。
20世紀初め、第一次大戦や世界恐慌により社会不安が高まる。これに対応し政府は社会保障制度の拡充を進め1911年に国民保険法が制定された。この法はウェッブ夫妻などの影響を受けたものである。彼らは1909年の「少数派報告」でナショナルミニマムという概念を主張する。ウェッブ夫妻は1897年の「産業民主制論」で、救貧法の解体と、国家が国民に対し、所得、教育、衛生、余暇など生活の最低限度(最低水準)を保障するというナショナルミニマムの概念を提唱している。
1942年、第二次世界大戦中にベヴァリッジ報告が発表される。ベヴァリッジは、ナショナルミニマムの概念を提唱し、貧困、疾病、無知、不潔、怠惰という「5つの悪」に対抗するため、社会保険制度や公的扶助制度を整備することを勧告した。この報告書は大きな反響を呼び、戦後の労働党政権によって実現された。この報告書を契機に、各国で「ゆりかごから墓場まで」を保障する福祉制度が追求されるようになったのである。
以上のように、イギリスの貧困対策の歴史は、貧困認識の転換の歴史であり、ナショナルミニマムには貧困者の尊厳と権利を保障するとともに、社会的包摂と経済的発展を促進するという意義があると言える。
[参考文献]
1)福田幸夫・長岩嘉文(編)『社会福祉の原理と政策』弘文堂 2021年
2)高島善哉(著)『アダム・スミス』岩波書店 1968年
3)長谷川貴彦(著)『イギリス現代史』岩波書店 2017年