2024年3月20日水曜日

水上勉さんの文章道

 私の人生には、師と呼べるひとが幾人かいます。作家の水上勉さんは、その中でも最も大きな存在の方でした。20歳の頃からお話させていただくようになりました。いつだったか、私の書いた論文に軽く目を通し「あなたの書く文章は詩になるかも知れないね」と言ってくださったことが、私の人生を変えてしまったのかも知れません。
あれから30年近くの月日が流れました。

 私の書棚には、水上勉さんの著作「虚竹の笛」があります。
虚竹の笛
沖縄に移住しようとしていた頃に戴いた本で、水上さんの署名の入った、私にはもったいない一冊です。本書は第二回親鸞賞を受賞した作品ですが、この本について語った水上さんの言葉が今も忘れられません。
「文章道を行くのであれば、私は先輩たちの名作から学び、文章道にもとらないようにしたいものだと思います。『虚竹の笛』は、そういうことを書いておきたい本です。借り物の言葉を言ってすましているのは愚かです。この本には借りた言葉はないでしょう」
 水上さんが他人の文章について語ることは殆どありません。過去の偉大な作家の作品の素晴らしさを語ることはあっても、水上さんの批判というものを私は聞いたことがないのです。
 この頃、晩年の水上さんは、一語一語ゆっくりと、息をとぎれさせながら語っていました。丁寧に言葉を選びつつ語るので、話す言葉に隙が見つからないほどです。そこへ「借り物の言葉を言ってすましているのは愚かです」と言われたものだから、こちらは緊張します。自分自身を振り返ると、好きな作家や思想家の言葉と文体を、知らず知らずの内に拝借してしまうことが少なくありません。
 水上さんの言葉は、現在の小説家の文体にもあてはまります。例えば、著者や作品名をまったく見えない状態にして、過去の作家の本を読んでみると、井伏鱒二、井上靖、太宰治、志賀直哉、永井荷風など挙げればきりがありませんが、文体そのものが各々完全に異なります。
 しかし現在の小説家は、実名を挙げることは控えますが、他人の小説を「これは私が書きました」といってみても全く違和感のないほど似通ったものが溢れています。

 そして水上さんが語ることは、走ることにも通じるものがあります。私の陸上の師は、誰かの後ろについて走ることを嫌いました。「自分の速度で走っていない」と言うのです。
1500mで、私が先頭を走る選手の真後ろについてラスト150mで追い抜いてゴールした直後には、「よく勝ったと思う。でもお前は他人の速度で走って、それで満足なのか?」と言われました。「自分自身を把握すること、そして自分の速度を貫くことが大切だ」と言われ続けて私は走りました。
 水上さんに「借り物の言葉を言ってすましているのは愚かです」と言われ、極度に緊張した理由には、走っていたころの記憶が蘇ってきたこともありました。

 さて「虚竹の笛」には、日本人留学僧と中国の女性との間に生まれ、日本に尺八を伝えたとされる禅僧を軸に、小説とエッセーを交えて、日本と中国との文化交流が描かれています。
「尺八の音を聴くと、禅宗の無の思想が伝わるように思えてならないのです。あの笛は何故なるのでしょうか。そう思います」
「人間には二通りある。無為の真人の修行の道と、それと無縁の道が、あるように思えます。笛を吹くことの出来る人間は前者に該当します。谷間の竹が、風の音を聴いて育ち、笛になるのです」
 笛を吹くことの出来る人は、笛に共鳴するものを持っているということなのでしょう。
勿論それが禅宗であるとは限りませんが、尺八の響きは計り知れないものがあると水上さんは語っていました。
 禅とランニングとを関連付ける発想は海外でも散見されていますが、走ることも自然との共鳴であるように思います。
 「走」という動作を通じて、重力や風、気温など、自分自身を取り巻く自然環境と共鳴することが出来る人、その人こそまさしく走者であると言えるのではないでしょうか。
そして水上さんの語る「無為の真人の修行の道」は、独り長い道程を、旅をするかのように走っていると、おぼろげながら見えてくるように思えるのです。